幸せな結末

Happy End

イッツ・トゥー・レイト

なるべく毎日何かしら書こうと決めている。目的は特に無いが、続けることによってそこに意味がついてくるような気がしている。

キャロル・キングの「つづれおり」について話す。
僕が中学3年生だったころ、NMEかなにかのサイトで、今までの全てのアルバムのランキングを付けるという、今思えばかなり無謀な企画をやっていた。それに上位に挙げられていたアルバムが、この世界に存在する素晴らしい音楽の宝の山に一歩踏み入れるための大きな足がかりとなった。具体的に言えば、ニール・ヤングビーチ・ボーイズデヴィッド・ボウイの代表作などだ。それらの名盤と並行して、当時では「最近の音楽」であったレディオヘッドと出会い、価値観を根底から覆される経験をした。もっと刺激的で衝撃的な音楽が世の中にはあるに違いない(いや、レディオヘッド以外にない、とさえ思ったかもしれない)、また、そういうアルバムこそが素晴らしいんだと考えていた中、キャロル・キングの繊細で、飾り気のない(ともすれば地味な)このアルバムは、いまいちしっくり来なかった。こんなアルバムが名盤として語られているということに疑問を持っていたのだ。


ある日、家族で旅行に行った。うちは電車など使わず、昔から旅行といえば早朝から車を出して行く、というパターンだった。その時どこへ行ったのかは忘れたが、とにかくその車内で「つづれおり」を聴いた時、それまで感じなかったある種類の感情が芽生えた。それは寂しさにも似た懐かしい感情だった。
まだ自立していなかった頃の僕は、無力だった。家族で見知らぬ遠い土地へ行くことは、心躍ると言うよりも、どこか不安だった。ありえないことだけど、もし旅行先で自分以外の家族がいなくなってしまった時のことを考えた。考えないわけにはいかなかった。すると僕はどうしようもなく怖かった。この世の終わりのような、深い絶望感を容易に想像できた。

キャロル・キングの「つづれおり」を聴いても、それらが複雑に絡み合ったような感情が喚起される。正確に言えば、旅行の道中で優しく響いた「つづれおり」が、不安な僕の気持ちをいくらかなだめてくれた時の安心感、さらに、家族で過ごした少年期の思い出によるノスタルジーだ。


あれから10年近く経ち、数多くの音楽を聴いてきた。このアルバムに対する見方も少し変わってきたように思う。このアルバムは結局、アメリカン・ポップスの最良の形のひとつであるということ。若かりし頃のキャロル・キングが、ブリル・ビルディングで仲間とヒット・ソングを無邪気に作っていたころの曲のセルフ・カヴァーの曲も含まれているという事実は重要かもしれない。その頃(ブリル・ビルディング時代;1960年頃)はきっといい時代だったのだろうと想像する。「つづれおり」が出たのは71年。60年代の喧騒も終わり、無力感だけが支配していたような時期に、このような懐かしく優しい歌たちをもう一度歌うことによって生じるその「時間の距離」。それがノスタルジーを覚える一つの要因であろう。